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懐かしく拝見いたしました当時、函館西高に通っておりまして学校祭では連絡船を貸切りにし洋上フェスティバルがありたいへん盛り上がりました良い思い出ですありがとうございました
連絡船の貸し切りなんて出来たんですか初めて聞きました。羨ましい思い出ですね。西高もいい場所にありますね!
親父が昔修学旅行で青函連絡船に乗ったことがあると聞きました。僕もその時代に生まれていたら1回は乗ってみたいなと思いました
もうすぐ廃航路35年。撮影してた自分も今は年金暮らし時が経つのは早いものですね。まだ救いは保存されて見学出来るだけあり難いです。
やっぱり函館駅と言ったら、この喧騒ですよ今の静寂な函館駅は妙に無機質すぎます
本当にそうですね。何かしらの音にあふれてましたから。去年12月に久しぶりに行ったら本当に静かでした。
この前の年、私は小学校6年で先生に「連絡船に乗って修学旅行で青森に行けるのはもう今年で最後なんだよ」と言われて乗った記憶があります。窓から見えるイルカのジャンプ、連絡船の中で食べた弁当の箸袋、おしぼり入れ。すべて保管してあります。小学校のグランド脇に線路があり、映像にあったコンテナを連結した汽車を学校の校舎の窓や、グランドからよく眺めていました。翌年、青函博があり将棋倒しになりかけながら、とんねるずを見に行きました。(笑)中学2年の頃はバンドブームがあり、駅前の楽器店にギターの弦や楽譜を買いに行ったり、レインボーホールというライブハウスに行きました。高校に入って、ボート部に所属し、駅の裏にある今では夢の島がある場所でボートを漕いでおりました。高1の冬、親の病気の都合で東京に引っ越すこととなりましたが、本当忘れかけていた思い出が沢山よみがえります。その後何度か祖父や祖母が函館におりましたので会いに行きましたが、その祖父も祖母も他界し、何年も函館には行っておりません。子どももあと数年後には手が離れるので、その時には思い出めぐりで函館にゆっくりと旅行に行きたいです。もうその時は50を過ぎてると思いますが…(泣)貴重な映像本当に感謝いたします。
ただ撮影しただけの映像を見ていただいて、ありがとうございます。当時の函館は本当に色々な音にも溢れていて思い出深いです。北海道を旅していた自分にとっても、函館は特別の場所でした。函館から連絡船に乗ってしまうと自分の北海道の旅が終わってしまうからでした。函館に着いても中々船に乗らず何時もグズグズと時間を潰し、街中をうろついたり、旧桟橋辺りで、ぼんやりと連絡船を眺めたりして、旅が終わったと自分に納得出来るまで良く時間を潰していました81年当時までは、連絡船の待合室でも寝れましたから。自分も連絡船が無くなってから函館には行けてません。係留されている摩周丸がある内には一度行きたいと思っています。
活気がある頃の函館…。本当に懐かしい…。
あの頃はいつも何かしら人が多かったですね。函館駅から釧路・網走・稚内行きの特急や急行が次々出発していく光景が懐かしいです。
@@sawaaicb まさに、北海道の玄関口でしたね❗それが今は…。(泣)
@@アイスぴの 函館は本当にいい街ですよね。札幌⇒函館間に新幹線って結構ありかもですね。
この動画を撮影した翌月稚内から朝出発し、札幌で寝台に乗り換えて函館に向かい途中、苫小牧か登別で乗っていた列車が飛び込み自殺にあい、その場に斜めに傾いたまま2時間半待たされ結局函館に着いたのが22時ごろだったと思います辺りは真っ暗で、いわれるがまま通路を歩き、窓の外にうっすら見える大きな建物のようなもの。いつの間にか船の中に入っていて、ちょっとびっくりした記憶が今でもはっきり残ってます。中に入ってから気がついたのですが、その建物が船だったということです。多分あの通路は 1:51 のところだったのだろうと思います
稚内出発だと辛さが伝わりますね。自分も初めて北海道に入ったときは大阪から夜行列車で連絡船までは人の流れに乗って気が付けば連絡船の中でしたね。大阪から寝台特急⇒青函連絡船⇒『北斗3号』で札幌⇒急行『利尻』自由席で稚内目指してました。ただ、急行『利尻』が超満員で、なんと座る所すら無くデッキでしゃがんでいたので稚内を目指すも音威子府でギブアップしていまい駅のベンチでとにかく寝ました。降りてしまったんですけれども、夜明け前の霧に包まれた音威子府の駅が何とも幻想的で今でも思い出します。
改造客貨船でマークはMの字に翼を開いたカモメの図案に見えるので、桧山丸で間違いないでしょう。第1岸壁はファンネルが黄色く見えるようですが、八甲田丸でしょうか。懐かしすぎる……
八甲田丸ですね。桧山丸は乗るには一寸物足りない船でしたね。改造船だったから仕方がないんでしょうけどね。
後部の排気マストの天辺部分が白いから、桧山丸に間違いないですね(同型の石狩丸はマスト先が赤なので)。
そんな見分け方があったんですね。今まで気付きませんでした。87年最後に連絡船の中で買った連絡船の絵葉書を見てみたら確かに石狩丸は赤色でした( ´∀`)
@@sawaaicb 渡島丸型の貨物船を見分けるポイントは排気マストの色なんですね。渡島丸、空知丸=黒日高丸、桧山丸=白十勝丸、石狩丸=赤という具合でしたので。
青函連絡船に思い出のある私としては、固唾をのむ心境で見させていただきました。函館駅前の風景や旧駅舎の中、貨物列車を連絡船内に積み込む際に、重量のある機関車が船内に入らないようにするための、連結車両など、懐かしいものばかりです。よく撮っていてくださいました。メモリアルシップ青函連絡船記念館摩周丸に展示されている映像以上によいものだと思いました。ありがとうございます。
ありがとうございます。初めて北海道に旅行した時の連絡船と函館駅の思い出が忘れられません。函館駅の待合室とか売店とかも、もっと撮影しておけばよかったと、今では思います。
懐かしい時代、残しておきたい風景です。
函館に溢れていた心地よい雑踏音が少なくなってしまいましたね。
高校生のガキですが、貴重な映像拝見できて感動しておりました
もう、あっと言う間に30年以上が経ってしまいました。函館の街の記憶がこの時で止まったままです。東京駅で新幹線の行先掲示板を見る度に時代の流れを感じます。
自分は昼便より夜便の八甲田丸等にしか乗船しなかったけどとても懐かしく思いますよ、ありがとう。
稚内や網走釧路方面に行こう思うとどうしても夜間便になりますね。函館は案外通り過ぎることの方が多かった様に思います。
わたしの好きな 控え車(ヒ600)を見れて良かったです😃ありがとうございました
控え車(ヒ600)言われるまで気が付きませんでした。確かに控え車が無いと積み替え出来ませんもんね。
I lives USA 4 years.I was born Hokkaido and my grandparents were Aomori.I remember Aomori and Hokkaido.
aomori's atmosphere has changed a lot
函館駅構内での貨車の入換作業の音やDE10の汽笛、連絡船の汽笛・・・無くなってから25年も経つんですね。
懐かしい...立ち食いうどんが最高やった
自分青函連絡船には一度乗りたかったですが自分が2歳の時に廃止されました
自分も今でも乗れるのなら乗りたいですね。見学では無くて。
あの頃、私は高校生でこの駅、毎日使ってました。だから、駅の構内が映った瞬間、もう懐かしすぎて、息が止まりそうでした! あの頃の気持ち 思い出して、泣きそうです。 年をとると涙腺が弱くなりますね~。。
早朝の函館駅内は朝日が差し込んで綺麗でしたね。70年代は連絡船待合室の長椅子で眠り、80年代後半は、0番線改札出口の横で寝ていました。函館駅で過ごした時間は結構長かったです。駅待合室に隣接した食堂の焼きそば、美味しかったなァ~
予は青函連絡船に乗船したことがない。もとより乗船する機会も皆無であつた。だから何と訊かれてもせうせう困るのであるが事実としてかうであるといふことを言つてゐるのである。おまへらに理解できるかどうかは分からないが理解できやうとさうでなからうとこの際どうでもいいことである。いづれにせよ隧道化せられるはうが効率的であらうし手間もかからず安全であらう。
今となっては、駅舎と駅前だけが新しくなったが、行きかう人々が減少して、真新しい廃墟に近い。笑止。
今は観光客に特化した駅前の様な感じですね。青函トンネルが出来るまでは連絡船が主で北海道の玄関口でしたから人も荷物も函館を通過しない事には何処にも行けない時代でしたから人の滞留も多かったんでしょうね。
懐かしく拝見いたしました
当時、函館西高に通っておりまして
学校祭では連絡船を貸切りにし
洋上フェスティバルがあり
たいへん盛り上がりました
良い思い出です
ありがとうございました
連絡船の貸し切りなんて出来たんですか
初めて聞きました。羨ましい思い出ですね。
西高もいい場所にありますね!
親父が昔修学旅行で青函連絡船に乗ったことがあると聞きました。僕もその時代に生まれていたら1回は乗ってみたいなと思いました
もうすぐ廃航路35年。撮影してた自分も今は年金暮らし
時が経つのは早いものですね。
まだ救いは保存されて見学出来るだけあり難いです。
やっぱり函館駅と言ったら、この喧騒ですよ
今の静寂な函館駅は妙に無機質すぎます
本当にそうですね。何かしらの音にあふれてましたから。
去年12月に久しぶりに行ったら本当に静かでした。
この前の年、私は小学校6年で先生に「連絡船に乗って修学旅行で青森に行けるのはもう今年で最後なんだよ」と言われて乗った記憶があります。窓から見えるイルカのジャンプ、連絡船の中で食べた弁当の箸袋、おしぼり入れ。すべて保管してあります。
小学校のグランド脇に線路があり、映像にあったコンテナを連結した汽車を学校の校舎の窓や、グランドからよく眺めていました。
翌年、青函博があり将棋倒しになりかけながら、とんねるずを見に行きました。(笑)中学2年の頃はバンドブームがあり、駅前の楽器店にギターの弦や楽譜を買いに行ったり、レインボーホールというライブハウスに行きました。
高校に入って、ボート部に所属し、駅の裏にある今では夢の島がある場所でボートを漕いでおりました。
高1の冬、親の病気の都合で東京に引っ越すこととなりましたが、本当忘れかけていた思い出が沢山よみがえります。
その後何度か祖父や祖母が函館におりましたので会いに行きましたが、その祖父も祖母も他界し、何年も函館には行っておりません。
子どももあと数年後には手が離れるので、その時には思い出めぐりで函館にゆっくりと旅行に行きたいです。もうその時は50を過ぎてると思いますが…(泣)
貴重な映像本当に感謝いたします。
ただ撮影しただけの映像を見ていただいて、ありがとうございます。当時の函館は本当に色々な音にも溢れていて思い出深いです。
北海道を旅していた自分にとっても、函館は特別の場所でした。函館から連絡船に乗ってしまうと自分の北海道の旅が終わってしまうからでした。函館に着いても中々船に乗らず何時もグズグズと時間を潰し、街中をうろついたり、
旧桟橋辺りで、ぼんやりと連絡船を眺めたりして、旅が終わったと自分に納得出来るまで良く時間を潰していました
81年当時までは、連絡船の待合室でも寝れましたから。
自分も連絡船が無くなってから函館には行けてません。
係留されている摩周丸がある内には一度行きたいと思っています。
活気がある頃の函館…。
本当に懐かしい…。
あの頃はいつも何かしら人が多かったですね。
函館駅から釧路・網走・稚内行きの特急や急行が次々出発していく光景が
懐かしいです。
@@sawaaicb
まさに、北海道の玄関口でしたね❗
それが今は…。(泣)
@@アイスぴの
函館は本当にいい街ですよね。
札幌⇒函館間に新幹線って結構ありかもですね。
この動画を撮影した翌月稚内から朝出発し、札幌で寝台に乗り換えて函館に向かい
途中、苫小牧か登別で乗っていた列車が飛び込み自殺にあい、その場に斜めに傾いたまま
2時間半待たされ
結局函館に着いたのが22時ごろだったと思います
辺りは真っ暗で、いわれるがまま通路を歩き、窓の外にうっすら見える大きな建物のようなもの。
いつの間にか船の中に入っていて、ちょっとびっくりした記憶が今でもはっきり残ってます。
中に入ってから気がついたのですが、その建物が船だったということです。
多分あの通路は 1:51 のところだったのだろうと思います
稚内出発だと辛さが伝わりますね。
自分も初めて北海道に入ったときは大阪から夜行列車で連絡船までは人の流れに乗って気が付けば連絡船の中でしたね。
大阪から寝台特急⇒青函連絡船⇒『北斗3号』で札幌⇒急行『利尻』自由席で稚内目指してました。
ただ、急行『利尻』が超満員で、なんと座る所すら無くデッキでしゃがんでいたので稚内を目指すも
音威子府でギブアップしていまい駅のベンチでとにかく寝ました。
降りてしまったんですけれども、夜明け前の霧に包まれた音威子府の駅が何とも幻想的で
今でも思い出します。
改造客貨船でマークはMの字に翼を開いたカモメの図案に見えるので、桧山丸で間違いないでしょう。
第1岸壁はファンネルが黄色く見えるようですが、八甲田丸でしょうか。懐かしすぎる……
八甲田丸ですね。桧山丸は乗るには一寸物足りない船でしたね。
改造船だったから仕方がないんでしょうけどね。
後部の排気マストの天辺部分が白いから、桧山丸に間違いないですね(同型の石狩丸はマスト先が赤なので)。
そんな見分け方があったんですね。今まで気付きませんでした。
87年最後に連絡船の中で買った連絡船の絵葉書を見てみたら
確かに石狩丸は赤色でした( ´∀`)
@@sawaaicb 渡島丸型の貨物船を見分けるポイントは排気マストの色なんですね。
渡島丸、空知丸=黒
日高丸、桧山丸=白
十勝丸、石狩丸=赤
という具合でしたので。
青函連絡船に思い出のある私としては、固唾をのむ心境で見させていただきました。函館駅前の風景や旧駅舎の中、貨物列車を連絡船内に積み込む際に、重量のある機関車が船内に入らないようにするための、連結車両など、懐かしいものばかりです。よく撮っていてくださいました。メモリアルシップ青函連絡船記念館摩周丸に展示されている映像以上によいものだと思いました。ありがとうございます。
ありがとうございます。
初めて北海道に旅行した時の連絡船と函館駅の思い出が忘れられません。
函館駅の待合室とか売店とかも、もっと撮影しておけばよかったと、
今では思います。
懐かしい時代、残しておきたい風景です。
函館に溢れていた心地よい雑踏音が少なくなって
しまいましたね。
高校生のガキですが、貴重な映像拝見できて感動しておりました
もう、あっと言う間に30年以上が経ってしまいました。
函館の街の記憶がこの時で止まったままです。
東京駅で新幹線の行先掲示板を見る度に時代の流れを感じます。
自分は昼便より夜便の八甲田丸等にしか乗船しなかったけど
とても懐かしく思いますよ、ありがとう。
稚内や網走釧路方面に行こう思うとどうしても夜間便になりますね。函館は案外通り過ぎることの方が多かった様に思います。
わたしの好きな 控え車(ヒ600)を見れて良かったです😃ありがとうございました
控え車(ヒ600)言われるまで気が付きませんでした。
確かに控え車が無いと積み替え出来ませんもんね。
I lives USA 4 years.I was born Hokkaido and my grandparents were Aomori.
I remember Aomori and Hokkaido.
aomori's atmosphere has changed a lot
函館駅構内での貨車の入換作業の音やDE10の汽笛、連絡船の汽笛・・・
無くなってから25年も経つんですね。
懐かしい...
立ち食いうどんが最高やった
自分青函連絡船には一度乗りたかったですが自分が2歳の時に廃止されました
自分も今でも乗れるのなら乗りたいですね。見学では無くて。
あの頃、私は高校生でこの駅、毎日使ってました。だから、駅の構内が映った瞬間、もう懐かしすぎて、息が止まりそうでした! あの頃の気持ち 思い出して、泣きそうです。 年をとると涙腺が弱くなりますね~。。
早朝の函館駅内は朝日が差し込んで綺麗でしたね。
70年代は連絡船待合室の長椅子で眠り、80年代後半は、0番線改札出口の横で
寝ていました。函館駅で過ごした時間は結構長かったです。
駅待合室に隣接した食堂の焼きそば、美味しかったなァ~
予は青函連絡船に乗船したことがない。もとより乗船する機会も皆無であつた。だから何と訊かれてもせうせう困るのであるが事実としてかうであるといふことを言つてゐるのである。おまへらに理解できるかどうかは分からないが理解できやうとさうでなからうとこの際どうでもいいことである。いづれにせよ隧道化せられるはうが効率的であらうし手間もかからず安全であらう。
今となっては、駅舎と駅前だけが新しくなったが、行きかう人々が減少して、真新しい廃墟に近い。笑止。
今は観光客に特化した駅前の様な感じですね。
青函トンネルが出来るまでは連絡船が主で北海道の玄関口でしたから人も荷物も函館を通過しない事には何処にも行けない時代でしたから人の滞留も多かったんでしょうね。